生のインプットと書くアウトプット

MacBook Pro のモニターから目を離すと、なにやら異質な空間が広がっていた。ダークモードに切り替えたわけでもないのに視界は薄暗く、窓の方からはオレンジ色のほの暗い光が差し込んでいる。

いつの間にやら時間が経っていたらしい。そういえばリビングで仕事をしてたんだっけ。ようやく思い至り、カーテンを閉め、照明をつける。コーディングに没頭しすぎたせいだろうか。いつも過ごしている自室にしては、目に入るものがやけに新鮮だ。まるで大自然のなかで迎える早朝みたいに清々しい。

雑念が消え、目に映るものがスッと頭に入る。この感覚には思い当たるふしがある。創作したりして長時間にわたり何かに打ち込んだあともそうだし、旅行とか転居とかで生活環境を一変させたあともそうだ。タイ王国を一ヶ月くらい旅してから帰国したとき、しばらく頭が冴え渡っていたことは今でも覚えている。

これはどうやら特定の条件が重なって初めて起こる現象らしく、意識的にはできない。無理に神経を研ぎ澄ましても心はふわふわしたままで、この感覚を取り戻すことはできない。

集中力を要する行為を持続することで、瞑想と同じような効果が脳にもたらされるのかもしれない。

知覚する。意味づけする。それから次なる知覚へと意識を向ける。そのサイクルが短かければ短いほど、あの感覚の再現に近づく傾向がある気がする。根拠のない仮説ですが。

外部から受ける刺激の性質も、たぶん関係している。理想的なのは、ほとんど解釈の入り込む余地のないくらいに単純で、具象性の高いインプット。私はこれを生のインプットと呼んでいます。本を読んだりして得られる、いわゆる知識のインプットと区別するために「生」を付けています。

生のインプットから得られるものは、ごく小さな情報の粒に過ぎないので、それがどれだけ溜まっても意味を持たないし、それを言葉にして説明するのは難しい。小さな情報の粒をまとめ上げ、言語化する能力が必要なのだろう。

だから、自ら体験したことを振り返ることには意義がある。生のインプット体験を自分なりに解釈し、大きな意味づけを加えることで、初めてそれを人に伝えられるようになる。

最近になって、アウトプットが今の自分に足りない能力的な課題であると意識するようになった。書くことを通じて思考し、それをアウトプットしたい。そうは思っても、今までのパターンからすると、どうせ続けられず途中で投げ出してしまうだろうという気もする。

ただ、アウトプットを持続する原動力となり得るものは、少なくとも2つ存在する。

1つ目。自己実現のための目標として、アウトプットをはっきり意識するようになったこと。もともと自分を高めたいとか、これを達成したいとかいった目的意識はあまり強くなかったが、ここ半年くらいでそれがずいぶん高まった気がする。その証拠として近ごろ自己管理に気をつけるようになり、就寝時間が早くなり、お酒をあまり飲まなくなった。

2つ目。どうすればアウトプットを持続できるのかという課題認識そのものが思考を促すかもしれない、という仮説。課題の内容にかかわらず、考えるテーマをたくさん持つことでアウトプットの可能性は広がる。インプットを言語化する際には、どういう切り口で考えるかがポイントになるから、複数の文脈で物事を考えられる心理的状況にあることはプラスに働きそうな気がする。

あと理想としては、読み手がいそうなテーマを考えたり、それが適した媒体がどこにあるのか意識できるような書き手になりたい。書いたものが誰の目にも留まらないのは、やはり虚しい。でも、どうしても取りとめのないアウトプットにしかならないこともありそうなので、そうした備忘録的なものは自分のブログに載せると良いだろう。現に、この記事がそうだ。